下田ゆかりの人物、ペリー提督!
下田湾に注ぐ稲生沢川(いのうざわがわ)の河口近くの下田内港に、ハリスと共に下田にゆかりのある人物として知られる、マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)に纏わる一つの胸像が建てられています。
ペリーについては、学生時代より教科書をはじめとした書籍やテレビなどを通じて、様々な角度から折に触れその人物像について学んできたつもりでした。
しかしながら、そんな私の中のペリー像を一新するかのような表情を浮かべているのが、この下田湾をバックに建つ『ペリー艦隊来航記念碑』です。
最初は特に意識もせず、ただ風光明媚な良い場所に建っているなぁ~という程度の印象だったのですが、胸像に近づくにつれ、「おや?」という感情が湧いてきました。
このペリー艦隊来航記念碑の胸像は、条約締結へ向けてこの地に上陸した、ペリー一行の来航を記念して建てられたものなのですが、この胸像には、私が思い描くペリー像とは異なるものがあり、また久里浜などにある銅像とも明らかにその表情に違いが感じられました。
そんなことから、しばしの間私は、この胸像の前で立ち尽くすこととなりました。
怖くないペリーがそこに!
ペリーについては、今さらここで多くを語る必要もないかと思いますが、マシュー・カルブレイス・ペリーは、1794年4月10日に、アメリカの東北部ロードアイランド州ニューポートで生まれ、アメリカ海軍の東インド艦隊司令長官として、鎖国状態にあった日本を、力づくで開国へと導いたことで知られる人物です。
当時の文献などには、オランダ色の強かった幕府の影響もあり、「彼理/ペルリ」という表記で数多くその名が登場し、また日本人と異なるその顔立ちやアルコール依存症だったことから、しばしば「天狗」や「赤鬼」などと呼ばれ、そんな風刺画も数多く残されています。
1853年に、黒船を率い圧倒的な力関係と文明の利器を武器に、日本を開国に追い込み、1854年3月31日に、神奈川にて全12か条に及ぶ『日米和親条約』を締結させ、約2ヶ月後の5月25日に、下田の了仙寺にて、細則付加条約として全13か条の『下田条約』を締結させました。
そんなことから、黒船ともども、怖いイメージが纏わりつくペリーなのですが、下田湾をバックに建つこのペリーの胸像は、そんな攻撃的なペリーの印象とは、どこか少し様子が違う感じがします。少なくとも私には、この胸像だけを見るにあたり、怖いイメージは湧いてきません。
教科書をはじめ、多くの方がクイズなどで「ペリー!」と答えるあの顔や、久里浜にある銅像などと比較してみても、明らかにその表情に違いが感じられ、全く別人にさえ思えてきます。
この胸像は、1966年10月28日に、彫刻家の村田徳次郎により造られたものなのですが、村田徳次郎がどのような意図のもと、このような表情のペリーにされたのかは、私にはわかりません。
しかしながら、下田の町を歩き回り、開国の歴史を学び、ペリーの足跡に触れるにつれ、私の中に1つの想いが巡るようになりました。
わたしが想う、ペリー像の答え・・・
初めこのペリー艦隊来航記念碑の前に立った時には、多くの方がそうであるように、私もペリーが上陸した場所なんだ…という、ごくごく普通の感覚で捉え、上陸地・来航地として、”来た”場所ということに目が行っていました。
しかしながら当然のこと、船に乗ってやってきたペリーはここから日本を去って行った訳で、”去る”場所でもありました。
日本を開国に導き、細則付加条約を締結させたペリーは、下田を去る時、おそらくは大統領から命ぜられた使命を果たせた”充実感”を感じていたのではないでしょうか。
そう考えると、日本の国土を見上げるこの胸像の顔には、大事をやり遂げた男の表情がうかがい知れ、条約締結にこぎつけた”安堵感”からか、また心の”解放感”からか、実に穏やかな表情が見受けられます。
開国を迫って日本に来てから今日に至るまでの日々を回顧しているかのようにも見え、また条約締結前には目に入らなかった日本の自然の美しさに、去る時になって改めて気づき、洋上から眺める下田の景観に心を奪われているかのようにも見えます。
ペリーの顔を見つめいろいろと想像を膨らませながら、下田の地がペリーにとって、日本滞在最後の場所であったことを念頭に考えると、実にこの地にふさわしい表情であり胸像であると思えてきます。
繰り返しになりますが、村田徳次郎がどのような意図を持って、このような表情のペリー像にされたのかはわかりませんが、私にはこのペリーの表情がそう思えてなりません。
この地に上陸して条約締結に向かう時の想いと、すべてを成し遂げてこの地から旅立って行った時のペリーの想いをいろいろ想像しながら考えた時、私にはこの胸像がどうしても後者の顔に思えてなりません。
今まで黒船来航から条約締結までのイメージしか持っていなかった私の中のペリー像に、今まで見つけることの出来なかった新たな1ページが刻まれたような気がします。
それが私の中のこの胸像の表情の答えであり、このペリーの表情は、久里浜ではなく、この下田の地だからこそ表現できたものだと、私には思えます。
ペリー上陸記念碑!?
そんなペリー艦隊来航記念碑ですが、このペリー艦隊来航記念碑を訪れてみると、ペリー上陸の地として久里浜にある『ペリー上陸記念碑』と混同されたり、ペリーが”初めて”上陸したのが、この下田の地であるかのように誤解されている方が多いように思われました。
実際のところこのペリー艦隊来航記念碑は、ペリー上陸記念碑と呼ばれることが今でも多く、一昔前までは、下田の観光協会のホームページやパンフレットをはじめ、ガイドブックや現地案内板にも、そのような表記が多々見受けられました。
地元の方々も「上陸記念碑」と呼ぶケースが多いようで、ひとつにはこのペリー艦隊来航記念碑は、2002年5月18日に現在の場所に移転となったのですが、1966年10月28日に制作されてからこの方、ペリー上陸記念碑と呼ばれていたことや、このペリー艦隊来航記念碑が建つ公園が、「ペリー上陸記念公園」という名称であることが要因にあるようです。
この下田公園下の鼻黒の地に、ペリーが上陸したことは事実ですし、ペリー上陸記念碑と呼んで何も差支えないのですが、どうもその言葉の響きから“日本に初めて上陸したのがココ…”というイメージが湧いてしまうのが問題のようで、久里浜と混同されてしまう原因のようです。
ちなみに、本家本元の1853年7月14日にペリーが日本に初めて上陸した久里浜に建つ『ペリー上陸記念碑』は、1901年7月14日に建てられたもので、下田のペリー艦隊来航記念碑とは対照的に、初代内閣総理大臣である伊藤博文の筆による『北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑』の文字が刻まれた、重々しい石碑となっています。
黒船来航!?
そんなペリー艦隊来航記念碑とともに、同じように誤解されている感があるのが、「黒船来航」です。
この下田の地にペリー一行が訪れたのは、浦賀沖にペリー艦隊が現れた、いわゆる「黒船来航」とは異なり、黒船の代名詞ともなっている「サスケハナ」号も、ここ下田には来航していないということです。
しかしながら、サスケハナ号は来航せずとも、黒船が下田に来航したのは事実な訳で、それを黒船来航と呼ぶことには何も問題はないのですが、歴史用語として「黒船来航」となると浦賀沖の史実を指すことから、誤解が生じてしまう訳です。
また現在サスケハナ号と称する遊覧船が、下田湾で日々運行していることも誤解を生む要因となっているようです。
ちなみに、一般的にいう「黒船来航」とは、1853年7月8日に、浦賀沖に現れた、ペリー率いるアメリカ東インド艦隊の巡洋艦4隻をいい、その内、旗艦のサスケハナ号とミシシッピ号が、帆船ではなく外輪式のフリゲート艦で、その黒塗りの船体の煙突から濛々と真っ黒な煙を吐いていたことから”黒船”と呼ばれたとされています。
『泰平の 眠りをさます 上喜撰(じょうきせん) たつた四杯で 夜も眠れず』と詠われたのも、この出来事からきています。
一方1854年4月18日に、この下田に来航した黒船の旗艦は、吉田松陰の「踏海の企て」で知られるポーハタン号で、2度目に浦賀沖に来航した全9隻の内、サスケハナ号と帆船のサラトガ号を除く7隻が、この下田に来航しました。
残念ながら来航しなかったサスケハナ号ですが、遊覧船としてはポーハタン号ではやはり人気も知名度も役不足といった感じだったのでしょうか、黒船の代名詞でもあるサスケハナ号が、現在も下田湾クルーズの観光遊覧船の船名として使用されています。
ちなみに、下田湾を挟み反対側にある弁天島に、密航を企てた吉田松陰と金子重輔の銅像である『踏海の朝』が建てられています。
遠征記に捧げた余生!
このペリー艦隊来航記念碑の横には、2004年3月31日に日米交流150周年によせて、第43代アメリカ合衆国大統領ジョージ・ブッシュから贈られたメッセージが刻まれたプレートが飾られています。
そのプレートの下には、『日米友好の灯』として、ペリーの生誕地であるロードアンランド州ニューボートから贈られた”灯”が焚かれています。
写真では分かりにくいのですが、ガラス中央やや左上に見えるオレンジ色の点が、灯されている炎になります。
またペリーの胸像の前には、アメリカ海軍から贈られたという、鎖付きの大きな錨が、ペリー艦隊来航記念碑を囲むように飾られています。
ペリーは、日本を去った後、1857年に海軍を退役すると、一般に『ペリー遠征記』と言われる『アメリカ艦隊シナ近海および日本遠征記』の編纂に残された人生を注ぎ、書き上げた後まもなくして63年の生涯を閉じました。
この下田の地を発ってから、わずか4年後の出来事でした。
そんなペリーの生涯を少しばかり学んだうえで、この地に上陸してから条約締結に向かうまでの想いと、条約締結を成し遂げこの地から去って行った時の想いを考えながら、このペリー艦隊来航記念碑をご覧頂けたらと思います。
私が感じたように、いつもとは違ったペリーの姿が思い描けるかもしれませんよ!
いつもと違うペリーに出会えたならば・・・
いつもと違うペリーに出会えたならば、ペリー一行と同じように、そのまま【ペリーロード】を抜け、条約締結の場となった【了仙寺】へと足を運んでみて下さい。
観光地として見慣れた景色が、いつもとは少し変わって映るかもしれません。
また毎年5月中旬に、この港町下田を舞台に、アメリカ海軍第7艦隊協力のもと、壮大に「黒船祭」が行われます。
祭り期間中には、このペリー艦隊来航記念碑にも献花が行われ、国際色溢れるイベントや企画展などが数多く催され、この期間に下田を訪れると、より深く開国の歴史が感じとれるかもしれません。
いずれにせよ下田を訪れた際には、是非ペリー上陸の地でもあり旅立ちの地でもある『ペリー艦隊来航記念碑』に、足を運んでみて下さい。
その時、この記事に書かれていたペリーのことを、少しでも思い出して頂けたなら幸いです…。