| 明治のトンネル 評価 |
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宇津ノ谷峠にある、4つのトンネル!
静岡で観光名所となっているトンネルと言えば、伊豆の「天城隧道」こと「旧天城トンネル」が有名ですが、それに負けず劣らず風情ある佇まいを見せているのが、1997年5月29日に、現役のトンネルとしては、日本で初めて国の登録有形文化財となった、『明治のトンネル』です。
「明治のトンネル」は、静岡市と岡部町の間にある「宇津ノ谷峠」(うつのやとうげ)の、旧東海道にあるトンネルで、ちょうど2市町の境界線上に位置するトンネルとなっています。
名前が名前なのでお分かりのように、明治時代に造られたトンネルなのですが、この宇津ノ谷峠には、この「明治のトンネル」以外に、便宜的に「大正のトンネル」、「昭和のトンネル」、「平成のトンネル」と呼ばれる3つのトンネルが平行してあります。
そんな中で、風情ある佇まいとともに、一際輝いて見えるトンネルが、この「明治のトンネル」です。
秀吉により開かれた道
この「明治のトンネル」がある宇津ノ谷峠は、「宇津の山」として、平安時代の文学作品である「伊勢物語」をはじめとした古典作品の中に、数多く登場する場所となっています。
特に、この「明治のトンネル」とは国道1号線を挟んで反対側の山中にある「蔦の細道」(つたのほそみち)は、宇津の山の峠越えの道として、歌に詠まれるなど、古くから広く知られる道となっていました。
現在も、詩歌に詠まれた頃の面影を感じさせる「蔦の細道」ですが、江戸時代になって幕府により宿駅制が布かれると、東海道のルートとして、「小田原征伐」の際に軍勢を進めるために、「羽柴秀吉」(豊臣秀吉)が開いたとされる「明治のトンネル」がある県道側の道が、官道として整備されていきました。
道幅2間(約3.64m)を基本として整備されていったこの旧東海道の峠道の片側には、側溝らしきものも備えられていました。
また、標高162mのてっぺん付近を通過するこの宇津ノ谷峠の旧東海道は、途中、斜面の崩落などの危険を伴う箇所が数多く存在していたため、街道脇には、その頃築かれたと思われる防護用の石垣が、今も所々残されています。
そんな難所となっていた宇津ノ谷峠に、当時村長であった「宮崎総五」の呼びかけに賛同した、「杉山喜平次」、「水谷九郎平」、「仁藤延吉」ら7人による結社の手により、1874年5月から掘削工事が始められたのが、この「明治のトンネル」でした。
労役人夫数が、延べ15万人にも及び、総工費 24,817円96銭をかけて掘られたこのトンネルは、1876年6月に完成し、同年11月には、それまでの峠道に代わり東海道本道として利用されるようになりました。
2つの顔を持っていた、明治のトンネル!
標高115mと、これまでの峠道より、50m近く低い位置を通ることとなったこの「明治のトンネル」は、峠越えの危険や労力を大幅に減らすものとなりましたが、この完成した当初のトンネルには、いくつかの特徴的な事柄がありました。
そのひとつが、東西の出入り口の工法の違いでした。
この「明治のトンネル」の岡部側は、比較的地盤が良かったため、トンネル内を角材で覆うという、「木角合掌造り」という工法がとられました。
それに対して、反対側の静岡側から20m近くまでは、地盤が悪く崩落の危険性が高かったため、「青石造り」という石組みの工法がとられました。
これにより、2つの顔を持つこととなった創建時の「明治のトンネル」は、東西で全く異なる印象を持つトンネルとなりました。
そしてさらには、その2つの顔を持つトンネルの暗闇の中に、通った者しか知りえない秘密が隠されていました。
くの字に曲がったトンネル・・・
この創建当時の「明治のトンネル」の、通った者しか知りえない秘密とは、このトンネルの形にありました。
全長223m、幅5.4m、高さ3.6mという数字には表れないこの「明治のトンネル」の秘密とは、両サイドから進められた掘削作業が、出合うはずの場所で出合うことができず、高低差を生じるとともに、ちょうど中央付近で「くの字」に折れ曲がるという、現代からすれば、なんともお粗末な姿のトンネルを生みだしてしまいました。
これには、当時の掘削技術の未熟さもさることながら、地元の和算家であった「古谷道生」をはじめとした門人による、根本的な測量技術のレベルの低さもあり、さらには予算的な問題も重なり、当初の計画とは大きく異なる姿のトンネルが誕生してしまいました。
後に、この「明治のトンネル」にお出ましになられた「明治天皇」も、中央付近では危険なため下馬された・・・という記録も残っているほどの出来栄えで、開通はしたものの、トンネルとしてはかなりひどい状況だったことが、当時の記録からうかがい知れます。
また、危険を伴う複雑な形をしたトンネルだったため、トンネル入口には、太陽光を採り入れるための反射鏡が設置され、内部には50ものカンテラが吊るされていましたが、それでもただでさえ暗いトンネル内部において、入口から出口が全く見えないこのくの字トンネルは、中央付近に行くと、顔を伺うことすら出来なかったという記述が、明治天皇の御幸に同行した記者により残されています。
生まれ変わった「明治のトンネル」
そんな「明治のトンネル」でしたが、1896年に、この闇を照らしていたカンテラが原因となって火災が発生してしまいました。
この火災により、トンネルの一部枠組みが崩落してしまい、通行そのものが出来なくなってしまいました。
それから何年かは、不本意ながら、また元の峠道を行くことを強いられることとなりましたが、1904年に修復され生まれ変わった「明治のトンネル」は、それまでのくの字から一直線なルートへと変更されるとともに、内壁も耐火性のある赤レンガで覆いつくされた、実に美しいトンネルへと変貌を遂げました。
現存するトンネルは、この修復後のもので、「旧天城トンネル」の東西入口に見られるような、凝った凹凸デザインの違いなどは無いものの、全長203m、幅4.0m、高さ3.9mとなった「明治のトンネル」は、現在、色合い豊かな赤レンガの重みのある内壁と、トンネル内を照らすやさしい灯りによって、文明開化の匂いが漂う、実に趣のある空間となっています。
 
日本初!の有料トンネル
そんな面白いエピソードが残る「明治のトンネル」ですが、最も特徴的だったのは、前述の7名が、工事費用の6割以上を出資したこともあり、開通とともに、50年間の道銭徴収を認められた、日本初!の有料トンネルだったということでした。
今でこそ有料トンネルは、当たり前のように存在していますが、このトンネル以前にそういう仕組みはなく、また民間主導のトンネル事業自体、とても珍しいものでした。
通行料は、当初、大人が2厘でしたが、後に値上がりして6厘となり、大荷車が3銭2厘、荷馬が1銭2厘、人力車や籠が1銭5厘となっていました。
開通から利便性とともに、大いに賑わいを見せた「明治のトンネル」でしたが、時代の変遷の中、1889年4月に、静岡〜浜松間に「鉄道」が開通すると、主役の座を追われ、やがて利用者も減っていくようになりました。
その後、自動車社会が訪れると、交通の主役は、人馬から車へと移って行き、時代の移り変わりとともに、この宇津ノ谷峠を抜けるトンネルも変遷していきました。
冒頭でご紹介したとおり、この宇津ノ谷峠には、明治・大正・昭和・平成と、4つの時代の異なるトンネルが造られましたが、すべて現存し通行可能なことから、時代時代の道路交通の歴史を直に学べる場所としてとても貴重な場所となっています。
その中で、やはり一番趣があり芸術性を感じるのは、この「明治のトンネル」であり、他のトンネルを寄せ付けない魅力がここにはあります。
平日は、ほとんど人影も無い寂しい場所となっていますが、是非一度、文明開化の匂いが漂うこの「明治のトンネル」に足を運んでみてください。
| ■ 明治のトンネル 〜 星★聖 の ひとこと 〜 |
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他の3本のトンネルとは大きく異なる、文明開化の匂い漂う「明治のトンネル」を、ゆっくり見学してみてください! |
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