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玉泉寺 Vol.12 玉泉寺(下田市)
「寺院」 部門
★「ギド・ヴェール」二ツ星
- Shimoda -
玉泉寺 下田
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『玉泉寺』をご覧になるにあたって
意外と知られていない「玉泉寺」

開国の町として知られる下田の町に、時代に翻弄され、数奇な運命をたどったひとつのお寺があります。

このお寺を舞台にして、数々の伝説と逸話が残されているにも関わらず、なぜかその名を知る人が少ないそのお寺こそ、下田湾を見下ろす高台に立つ、曹洞宗 瑞龍山玉泉寺』(ぎょくせんじ)です。

玉泉寺下田の町に、日本で初めて「米国総領事館」が置かれたことや、舞台やサザンオールスターズの歌などにも登場する「唐人お吉」(とうじんおきち)の開国悲話を知る方は多いかと思いますが、その舞台となったこの「玉泉寺」の名を知る方は、意外に少ないのではないでしょうか。

そしてまた、この「玉泉寺」が、あの世界的権威のグリーン・ミシュランこと「ギド・ヴェール」にて、二ツ星に輝いていることも、あまり知られていません。

そんな「玉泉寺」と、その境内に建つ「ハリス記念館」には、近代日本の開国の歴史が凝縮されており、実に興味深いお寺となっています。



初代米国総領事館

江戸から明治へと移りゆく、開国の舞台となったこの「玉泉寺」は、下田の中心地から、御用邸があることで知られる須崎方面へ、国道135号線を折れてすぐ左手の、下田湾を見下ろす高台に位置しています。

玉泉寺 「本堂」近くには、ハリスの散歩コースだったとされる「ハリスの小径」や、吉田松陰が 「踏海の企」を行ったとされる「弁天島」などがあります。

「本能寺の変」で知られる、天正年間に創建されたと伝わる「玉泉寺」は、開山以前は、今とは異なり真言宗の草庵だったとされています。

そんな「玉泉寺」を語る上で、やはり真っ先に登場するのが、この本堂に、初代「米国総領事館」が開設されたということですが、 この現在の本堂が落成したのは、江戸時代も末期の1848年のことで、開山以来20代目の住職の時でした。

今でこそなかなかわかり難くなっていますが、この「玉泉寺」が米国総領事館を置く場所に選ばれた理由のひとつには、下田湾が一望でき、出入りする船が一目でわかるという立地条件があったとされています。

1854年、「日米和親条約」が締結されると、下田港が開港され、異国からの船の出入りが始まり、その2ヵ月後には、付録「下田条約」が結ばれ、この「玉泉寺」が、「了仙寺」とともにアメリカ人の休息所となり、、また日本で初めての「外人墓地」となるべく埋葬所にも指定されました。

そこに1856年、米国総領事として「タウンゼント・ハリス」と、後に薩摩藩士に襲われ命を落すこととなったオランダ人通訳の「ヒュースケン」という、教科書でもお馴染みの人物2人が、中国人の召使とともに、「サンジャシント号」にてこの下田に来航しました。

着任にあたっては、幕府との行き違いなどがあり多少手間取ったものの、9月3日に、「玉泉寺」に米国総領事館が開設されると、ハリス以下10人が滞在するとともに、翌日には、「ハリスの日記」の一文でも知られるように、庭先に高々と星条旗が掲げられ、記念すべく開国への扉が開かれました。

この開国への一連の動きの中で、「玉泉寺」ではお堂が米国総領事館となることから、ご本尊等の仏像はまるまる運び出され、現在ハリスの石碑が建っているあたりに移されるなど、すべてが領事館としての異国スタイルに染められていき、本来のお寺としての姿が奪われていきました。

それから2年10ヶ月の間、心ならずも「玉泉寺」は、米国総領事館として開国への石杖を築く場となり、幕末の歴史の表舞台に登場することとなりました。



日本で最初の屠殺場!
 
3年足らずと、米国総領事館として機能した期間は、それ程長いものではありませんでしたが、実に多くの出来事が、この場所で起こっていきました。

玉泉寺 「牛乳の碑」その1つが、「玉泉寺」を訪れて、門をくぐりお堂とともに真っ先に目に飛び込んでくる、お堂横のの絵が描かれた石碑に纏わるお話です。

この石碑は「牛乳の碑」と言われ、伊豆で創業した「森永乳業」により建てられたものなのですが、総領事として滞在中のハリスが、病床時に牛乳を欲した際に、15日間飲んだ牛乳の対価として1両3分を与えたことから、日本で初めて牛乳売買が行われた地として、それを記念して建てられた石碑となっています。

また、門をくぐり、すぐ左手には、日本で最初の屠殺場(とさつば)の跡があります。

お寺の境内で殺生が行われた・・・というのも驚きですが、これも異国の統治下であった当時の状況では、仕方のないことだったのではないでしょうか。

今は枯れてしまったのですが、ここに立っていた「仏手柑樹」(ぶっしゅかんじゅ)の木に牛がつながれ、領事館の人々の食肉用に、牛が次々に屠殺されていったそうです。

後にこの仏手柑樹の木は、地元の人々に「屠牛木」と言われるようになりましたが、昭和に入って、屠殺されていった牛を弔うべく、東京の牛肉商によって、「牛王如来」が建立されました。



日本で最初の外人墓地!

門をくぐったすぐ右手には、「ハリスの石碑」が建っています。

このハリスの石碑は、この地に米国総領事館を開き、日本の門戸を世界に開いたハリスの功績を称えるとともに、ハリスの日記の一文などが彫り込まれています。

そんなハリスに関しては、お堂の右手に「ハリス記念館」が建っており、領事館時代に、ハリスが愛用した品々や領事館に纏わる古文書などが展示されており、また日本最古の銀板写真なども展示されています。

玉泉寺 「外人墓地」(アメリカ)本堂の北側にある墓地の一角には、日本で最初の「外人墓地」であるアメリカの「ペリー艦隊」の乗員5名のお墓があります。

また、本堂を挟んで南側の、ハリス記念館の奥には、ロシアの「プチャーチン提督」が乗船し、「安政東海地震」による津波で大破し、後に戸田沖で沈没した「ディアナ」号の乗員3名と、長い間その名がわからなかった「アスコルド」号の乗員1名の墓地があります。

このロシアのディアナ号の一件では、困り果てたプチャーチン提督が、大破した船に代わって、 たまたま下田に来航した民間のアメリカ船をチャーターしたのですが、その間、民間船に乗っていた女子供が、下田の町に降ろされ残されることとなりました。

玉泉寺 「外人墓地」(ロシア)鎖国下ゆえ、陸地での寝泊りが許されておらず、この間、「玉泉寺」に昼間だけ滞在することとなった民間人であるこの家族は、見知らぬ異国での長期生活でさぞや困惑したかと思いますが、もっと戸惑い騒動となったのが、当時の下田の民衆たちでした。

「純白の肌に紅の唇、髪は金髪、目は青く・・・」と、はじめて見る外国人の女性の容姿に、舞い上がる民衆の様子が、当時の文献などに数多く書き綴られています。

この出来事は、異文化に触れること自体が問題視されていた時代の出来事だっただけに、お役人にとってもとても頭の痛い問題だったようです。

他にも「アメリカ建国200年記念植樹」やいくつかの石碑が建てられており、この「玉泉寺」は、実に見所の多いお寺となっています。



開国悲話!「唐人お吉」

もうひとつ忘れてはならない出来事に、開国悲話として演劇や小説でも有名な、「唐人お吉」のお話があります。

この「唐人お吉」のお話も、ここ「玉泉寺」での出来事が始まりでした。

玉泉寺 「ハリス記念館」ひょんなことから名前が挙がり、幼馴染の婚約者との仲を引き裂かれ、ハリスのもとに仕えるようになったお吉(本名:斉藤きち)は、始めこそ人々の同情を誘ったものの、異国人に仕え、次第に生活も変っていったことから、やがて民衆から嫉妬まじりに軽蔑視されるようになっていきました。

わずか3ヶ月という短い期間で解雇され、元の世界に戻ったお吉でしたが、周囲の冷たい視線は変らず、やがて酒に溺れる毎日となっていきました。

地元を捨て、下田の町を離れ転々とするも、堕落の一途をたどり、再び下田の町に戻り小料理屋を開くも、すでに身も心もボロボロの状態だったお吉は、2年で店をたたむと、物乞い生活から最後は自殺するという、あまりにも哀れな人生を送ることとなりました。

自分の意思に反してハリスに仕えることとなったことから、数奇な運命をたどることとなったお吉ですが、現在、お吉のお墓は、下田の街中にある「宝福寺」の境内にあり、この「唐人お吉」のお話を知る多くの人々により、菩提を弔らわれています。



玉泉寺を救った 渋沢栄一!

そんな開国時の日本の表舞台にあった「玉泉寺」でしたが、文明開化の時代の変遷の中で、急速に発展を遂げた明治の日本においては、水運から陸上交通へと移り変わったこともあり、下田の町とともに、取り残されるかのように徐々に荒廃していきました。

玉泉寺 「本堂」やがて、寺を守ることもままならず、すっかり荒れ果ててしまった「玉泉寺」でしたが、そこに、このお寺の偉大な歴史を知った、当時24歳の若者であった現住職の祖父が、この玉泉寺を復興すべく、地元で活動を行っていきました。

しかしながら、時代が時代であったこともあり、寄付などという経済的な余裕は世間一般には無く、また史跡の保存などという価値観もまだ乏しい時代でしたので、思うように事は進みませんでした。

困り果てた現住職の祖父は、一大発起して、地元を離れ東京で復興支援の活動を行いました。

しかしながらやはり思ったような成果はあがらず、半ば諦めかけていたところに、ひょうんなことから人づてにこの「玉泉寺」の復興活動を知った方の紹介で、「近代日本資本主義の父」と呼ばれる、「渋沢栄一」氏に出会うこととなりました。

渋沢栄一といえば、国立銀行の設立をはじめ、「東京ガス」、「日本郵船」、「帝国ホテル」、「東京電力」など、数百にも及ぶ企業の設立を支援しただけに止まらず、「日本女子大」や「東京女学館」など、数多くの学校の設立にも寄与した偉大な実業家でした。

渋沢栄一は、海外から帰国した後、一時期静岡に滞在したこともあり、静岡ゆかりの人物でしたが、この「玉泉寺」の話を伺うと、すぐにとは行かないまでも、「玉泉寺」の復興に支援するという約束をされました。

なんとか事がうまく運ぼうとしていたそんな折、1923年関東大震災」が起こり、あちこちで復興支援の費用がかかる事態となり、この「玉泉寺」の復興のお話は暗礁に乗り上げ、またもや復興の夢は断たれるかと思われました。

しかしながら渋沢栄一は、約束は必ず守る!とのことで、時間こそかかりましたが、震災から4年後の1927年に、お堂の屋根の修復から、ハリスの石碑の建立まで、現在のお寺の礎を築くべく工事を行い、「玉泉寺」が時代を乗り越えることに多大なる貢献をされました。

この「玉泉寺」にあるハリス記念館には、そんなことから渋沢栄一に纏わる展示品もいくつか置かれています。

私は、ハリスの展示館に、なぜ渋沢栄一が登場するのか?だったことから、庭で掃除をされていた住職に質問をしたところ、このようなお話を伺うことができましたが、その言葉のひとつひとつに、今も渋沢栄一氏への感謝の念がこめられているのを感じました。

埼玉県の深谷出身の渋沢栄一ですが、地元の方がこの「玉泉寺」を訪れると、住職は感謝の言葉をかけるとともに、訪れた方も、地元の偉人の逸話に、歓びを表すそうです。



ハリスの石碑に大の字!

渋沢栄一のご尽力もあり、その後は順風満帆に歴史を刻んでいくかと思われた「玉泉寺」でしたが、太平洋戦争が始まると、またもやお寺に危機が訪れました。

玉泉寺 「ハリスの石碑」敵国アメリカの人物の功績を称えるという、アメリカゆかりのお寺であった「玉泉寺」は、当然のように軍部の標的となりました。

そんな折、「ハリスの石碑」を壊しに来た兵隊を前に、住職の祖母は、倒されはしたものの破壊だけは・・・と、ハリスの石碑の上に大の字になって、身を挺して阻止されたそうです。

そこには、苦労してお寺を復興した際の渋沢栄一氏へのご恩の念もあったのかもしれません。

かろうじて壊されることだけは免れたハリスの石碑でしたが、終戦後、GHQの占領下となると、今度はアメリカの偉人の石碑が横たわっているとは何事ぞ!とのことで、早く建て直せ・・・と、また起こされ現在に至っているそうです。

まさに目まぐるしく国際情勢に翻弄されたお寺の歴史が、こんなお話にも残されています。



現職アメリカ合衆国大統領が来訪!

数々の伝説が残るこの「玉泉寺」ですが、国際色豊かなこのお寺のお話は、まだまだ続きます。

1979年6月27日には、なんと現職のアメリカ合衆国大統領が、この「玉泉寺」を訪れるという事態となりました。

カーター大統領歓迎看板第39代アメリカ合衆国大統領であった「ジミー・カーター」氏と、「ロザリン・カーター」夫人、「エミー・カーター」嬢が、下田で行われるタウンミーティングの際に、この「玉泉寺」を訪れ、ペリー艦隊の将兵墓地をお参りになられるということでした。

現職の大統領が来るというこの出来事自体、地方の小さなお寺にとっては、とんでもないことだったのですが、この大統領のご来訪にあたっては、とてつもない日々が続いたそうです。

大統領が来る1ヶ月も前から、境内のみならず裏山には警備用の鉄線サーチライトが設置され、夜も煌々と明るく照らされた中で、生活することとなったそうです。

前日には、ホワイトハウスとの直通電話がお堂の前にひかれ、多くの警備員に取り囲まれ、それはそれはお寺のイメージとは程遠い、ものものしい雰囲気だったそうです。

玉泉寺 「外人墓地」(アメリカ)今でもこの時の模様は、ハリス記念館にある写真などで伺い知ることが出来ますが、お堂壁面には、「WELCOME PRESIDENT CARTER」の文字の、大統領を歓迎した際の看板が飾られています。

この大統領のご来訪以外にも、毎年のようにアメリカとロシアの高官が訪れては、それぞれの墓地にお参りしていかれるそうですが、住職の受ける印象では、ロシア人の方が情に厚く、菩提を弔ってもらっているという感謝の念を、今も強く表していくそうです。

1991年には、天皇・皇后両陛下も行幸されたこの「玉泉寺」、そんな語りつくせないほどの出来事の舞台となり、日本と世界との関係において歴史に振り回され続けたこの「玉泉寺」に、みなさんも一度訪れてみてはいかがですか。

お世辞にも広いとは言えない境内ですが、そんな境内いっぱいに、こぼれんばかりの伝説と逸話が残されています。
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■所在地 下田市柿崎31-6
■問合せ 0558-22-1287
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■□■ 星★聖 のココがポイント!「玉泉寺」 ■□■
石碑や記念碑を一つ一つ見ていかないと、このお寺の面白さはわからないぞ!
本堂の左右にある、アメリカとロシアの外人墓地を見逃すな!
話題が尽きない住職のお話が、とても面白いよ!
温泉マイスター 星★聖
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