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岩科学校 Vol.42 岩科学校(松崎町)
「歴史的建造物」部門
- Matsuzaki -
岩科学校 松崎
Presented By 星★聖
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『岩科学校』をご覧になるにあたって
伊豆最古の小学校 「岩科学校」

西伊豆にあって、独特の文化が栄えた地として知られる賀茂郡「松崎町」。

岩科学校個人的にも大好きな町なのですが、ドラマや映画のロケ地として、またロマンあふれる里として人気の観光地となっている松崎の町の市街地から、「岩科川」沿いに遡り、ドラマ「世界の中心で愛を叫ぶ」にも登場した田園風景が広がる長閑な道を進んでいくと、およそこの地域には似つかわしくない外観の建物が見えてきます。

和洋折衷のいかにも明治時代の建築物といった雰囲気のこの建物が、伊豆最古の小学校にして、日本で3番目に古い小学校でもある『岩科学校』(いわしながっこう)です。

旧岩科学校」と呼ばれることも多いこの建物のとなりには、以前は「岩科小学校」があり、「岩科川」沿いに車を走らせていると、元気に校庭を走り回る子供たちの声が聞こえてきていたのですが、残念ながら少子化の波とともに、2007年にこの「岩科小学校」は廃校となり、「松崎小学校」へと統合されてしまいました。

そんなことから、明治時代に建てられた学校の旧本館校舎にあたるこの「岩科学校」は、当時の学校の様子を体感できる貴重な展示施設となっているとともに、「岩科小学校」の足跡を今に伝える、地元岩科の人々にとっても貴重な遺産になっています。



お金じゃ買えない!建築美

この「岩科学校」は、木造2階建の延床面積が198.7坪の建物で、明治時代の1879年4月に着工し、翌1880年9月に竣工しました。

「洋風」な白いバルコニー棟梁に地元の大工「高木久五郎」を迎え、「菊地丑太郎」との40に満たない若い2人の共同作業にて設計・施工された建物で、特徴的なその外観には、松崎の町のシンボルでもある「なまこ壁」が使用されています。

重厚さを増す日本の伝統建築様式と、曲線を描く白いバルコニーが特徴的な洋風様式が合わさった建物であるこの「岩科学校」は、独自性のあるなんとも美しい建物となっています。

また、その外観デザインのみならず、校舎としての機能面においても、2人が建築前に訪れた、三島や沼津の学校で得た学校建築のノウハウが随所に生かされており、内も外も充実したバランスのとれた実にすばらしい建築物となっています。

この建物が建てられることとなった背景には、新しい時代の幕開けとなった明治という時代を生き抜くためには、「教育」が必要であると感じた、当時の岩科の村の人々の見識の高さが挙げられるのですが、中でも当時岩科村の戸長として行政を司っていた「佐藤源吉」らが中心となり、この「岩科学校」の建築計画が進められ、校舎建設に向けての寄付金も多数集められました。

「和風」の落ち着きを感じる廊下総工費 2630円66銭3厘の内、実にその4割余りが寄付金によるもので、その内1割強290円が村民の寄付金であったとされています。

けして裕福な生活環境であったわけでもないこの岩科の村民が、これだけの寄付を行ったということだけとっても、いかに地元の人々にとって、「教育」というものが大事であり、「教育」の場としての学校の存在に、夢を膨らませていたかがうかがい知れます。

この総建築費が現在の貨幣価値にしてどれくらいになるのかは、物価との比較で割り出すことは可能ですが、今この建物を建てようとしたならば、何億になるのか?見当もつきません。

実際には、不可能!というのがその答えであり、その訳は、この建物をご覧になれば必然的にお分かり頂けるかと思います。



「鶴」が羽ばたく姿!

「岩科学校」の建物を、正面遠方より見ると、アプローチが弧を描いていることや、正面左手に松の木があることから一見わかりにくいのですが、この「岩科学校」は綺麗にシンメトリーな建物となっています。

岩科学校さらには1階のみ、左右が大きく張り出す形となっており、玄関上は庇も兼ねた洋風バルコニーがアールを描きながら張り出しており、まるで、京都の「平等院」の鳳凰を模した建物のように、その姿を上空から見ると、「」が羽ばたこうと翼を広げた瞬間のようにも見えます。

外観のなまこ壁や特殊な瓦葺による白と黒のコントラスト、さらにはアクセントカラーの赤が部分的に使われていることなどが、そのイメージをさらに膨らませます。

「岩科学校」の姿に、「鶴」を重ね合わせているのは、実はわたしだけなのかもしれません。

「平等院」もそうですが、実際には上から建物を眺める機会というものは、そうあることではなく、そもそもそういう発想をすること自体特殊なことなのかもしれません。

展示資料やガイドブックなどの中には、そのような表現をした記述はなく、地元の方のお話でもそういったお話は伺えなかったのですが、わたしにはどうしてもこの「岩科学校」の姿が「鶴」に見えて仕方ありません。

シンメトリーで左右が張り出すカタチの明治の洋館は、「北海道庁 旧本庁舎」や「三重県旧県庁舎」などよく見かけるデザインなのですが、なぜ?わたしがそのように思えたのか、なぜ?そう感じたのか・・・、その答えは、この「岩科学校」の建物の2階にあります。



長八最高傑作!「千羽鶴」

わたしが「岩科学校」の建物の姿に、「」を重ね合わせたのは、「岩科学校」の一番の見どころとなっている、2階の西側の端にある「鶴の間」を見た時でした。

「鶴の間」に羽ばたく「千羽鶴」



















この「鶴の間」は、客室としての利用の他、日本の伝統作法や裁縫などの授業にも利用されていた和室で、実に彩り豊かな部屋となっていて、およそ学校の校舎としては似つかわしくないその豪勢な造りと、白黒のシンプルな外観からは想像できない鮮やかな色彩に、訪れる方の多くが驚きを覚える和室となっています。

この和室を手掛けたのが、松崎が生んだ名工「伊豆の長八」こと「入江長八」で、部屋に入り畳に座り見上げると、ぐるりと欄間に138羽の「鶴」が舞っており、抜けるような青空と、今にも目の前を横切りそうな「鶴」の羽ばたく姿に圧倒されます。

寺院や茶室など、仏の世界や茶の湯の世界において感じる和室の地味で枯れた感覚とは180度その方向性が異なる、彩り豊かで踊り立つこの和室の感覚は、他ではなかなか味わえないものがあります。

金箔がふんだんに施された豪華絢爛な和室とも異なり、なんとも表現できない感覚が、この長八作品の「千羽鶴」が舞う和室にはあります。

長八作の「鶴」の懸魚










似たような感覚を味わったのは、全く異なる建築物なのですが、北海道の旭川にある「雪の美術館」の音楽堂に入った時でしょうか。

どこまでも続くような空の絵に感動を覚えたのを覚えていますが、この「岩科学校」の天井は普通に張られた和室なわけで、そこまで大がかりな壁画ではないのに、この長八が描く青空に舞う「千羽鶴」には、奥行きと広がりを感じます。

これらの「鶴」は、昇る太陽に見立てられた床の間の紅の壁を目指し羽ばたいているのですが、欄間という限られたスペースだけで、この和室のイメージを一変させる長八の技法のすばらしさに改めて感嘆します。

松をイメージした緑の脇床には、「山水図」と「美人賞蓮の図」も描かれており、こちらも見事なものなのですが、それらが全く印象に残らないほど、この「千羽鶴」の欄間はすばらしいものがあり、伊豆の長八の名を知らしめるべく作品となっています。

脇床そんな長八の「千羽鶴」が舞うこの和室を見た時、わたしはこの「岩科学校」そのものの姿に「鶴」を重ね合わせていました。

意図して設計されたかどうかは、今も?ですが、わたしには長八作品の「千羽鶴」がここに描かれていることが偶然には思えず、後に知ることとなった岩科人の気質も相まって、今もこの「岩科学校」の建物全体が、まさに大空に向けて羽ばたこうとしている「鶴」に見えてなりません。

このことは、全く個人的なものであり、この「岩科学校」の説明には当たらないのですが、訪れた際には、一度そのような目で建物全体を眺めてみてください。

ちなみに、長八の最高傑作とも評されるこれらの作品は、長八が66歳であった時の作品で、74年の生涯を全うした長八が、晩年故郷に錦を飾るべく腕を振るった作品のひとつとなっています。

そんな「入江長八」についてもっと知りたいという方は、是非とも帰り道に「伊豆の長八美術館」に寄ってみてください。

この「伊豆の長八美術館」は、長八作品ならではの鑑賞アイテムが登場し、鏝絵(こてえ)がどういうもので、他に類を見ないその左官技法の素晴らしさが、直に体感できます。

一風変わった芸術的な作品が多々ありますので、鏝絵を見たことがないという方は、是非とも立ち寄ってみてください。



特徴的な白いバルコニー!

この芸術的な「鶴の間」の他にも、この「岩科学校」の本校舎内には、昔の学校の様子を再現した校長室や教室をはじめ、いくつかの部屋があり、趣向を凝らした展示がなされているのですが、この「鶴の間」があまりにも素晴らしいため、他が見落とされがちになってしまいます。

岩科学校の扁額と彫刻ちなみに、この「岩科学校」が造られた当初は、当時としてはモダンで特徴的なデザインであったバルコニー付きの玄関が地元の人々には人気となり話題を呼びました。

現在も残る、バルコニー上に掲げられた扁額は、最後の太政大臣として知られる「三条実美」(さんじょうさねとみ)の書によるもので、建物に負けず劣らず威光を放つ書となっているのですが、さらにその上に見える「」が、前述の「入江長八」が、鏝絵ならぬ棟梁ののみを借りて彫ったとされる彫刻で、この2つの装飾がこの「岩科学校」に、さらなる重みを与え、重厚感漂う威風堂々とした建物にしています。

また、バルコニー前の真っ青な天井に描かれた絵や欄間も見ごたえがあり、白いバルコニーから眺める緑の庭園も、実に美しいものとなっています。

しばらくこの景色を眺めながら、ご自身の小学生時代を振り返ってみるのも良いのではないでしょうか?



昔の学校の姿がここに!

館内の展示資料によると、「岩科学校」の歴史は、明治初期の1873年8月25日にまで遡ります。

再現された校長室開校当初は、男子89名女子60名の計149名の生徒を、6名の男性教員が教えていました。

天然寺」の廃院だった「天養院」「常光院」を利用して行われていた授業は、やがて生徒数の増加とともに手狭となっていき、新校舎の建設が熱望されだしました。

そんな中、前述の「佐藤源吉」らの活動と、村有林の売却資金を元手に、隣接する農地を買収して、約780坪という広げられた敷地に、新校舎が建設されることとなりました。

リアルな人形による授業風景その後、1885年に階段を螺旋階段化すると、1908年にはガラス戸となり、一部改築が行われたものの、基本的な姿に変更はなく、長い間「教育」の場としての役割を担ってきました。

1964年に、静岡県の文化財となったこの「岩科学校」は、1975年6月23日に、「旧岩科学校校舎」として、晴れて国の重要文化財に指定されました。

重要文化財指定の翌月まで、「幼稚園」として利用されてきましたが、その後は、小学校の特別教室として利用されるものの、文化財として後世に「岩科学校」が経てきた時代を伝えるべく役割を担うこととなりました。

農家の暮らしがわかる展示そんな中、地元の子供たちに「重文!重文!」と呼ばれ親しまれているこの「岩科学校」は、1990年11月より、約2億3000万円かけて、地元の「鈴善工務店」により、大規模な半解体保存修理工事が行われました。

この工事では、用務員室などの下屋部分の復元や、間仕切り・旧階段・窓などが建設当初に近い形で復元され、屋根裏も竹野地に土を盛り瓦を葺くという、建設当初の技法により復元されました。

この平成の半解体保存修理工事の内容については、「岩科学校」の1階東側の展示室に、詳しい資料が当時の写真や実際に交換された柱などとともに展示されていますので、ご覧になってみてください。

足ふみ式オルガン1992年11月に、見事完成・復元されたこの「岩科学校」の内部には、リアルな人形による明治時代の校長室や、当時の授業風景がわかる教室、農家の暮らしぶりがわかる部屋に、村の産業や歴史に関する道具や資料などの展示等、「岩科学校」が経てきた時代時代の、岩科の人々の暮らしがわかるものが数多く展示されています。

今の子供たちには考えられないでしょうが、がっしりとした木製の机や椅子、授業の合図などに使用された大太鼓、足ふみ式のオルガンなど、懐かしい学校アイテムも揃っています。

また、難解な漢字と文章が続く昔の教科書通知表表彰状卒業証書などの貴重な資料も数多く展示されており、戦前に学んだ方からすると懐かしく、平成生まれの子供たちからすると、あまりのギャップにかなり驚かされる展示内容となっています。

ご年配の方の中には、これらの展示資料から、懐かしい記憶が蘇り、ご自身の学校生活が思い起こされる方もおられるのではないでしょうか。



実に的を得た教育では?

開校時の「岩科学校」の教育制度は、6歳13歳までを対象に、「下等小学」と「上等小学」とに分かれていました。

明治時代の卒業証書教育期間は、原則それぞれ各4年間とされ、半年単位で8階級に分かれており、週30時間(同年 20時間へ改正)の授業が行われていました。

原則と書いたのは、現在の日本では、高等学校以下では認められていないこともあり、あまり馴染みの無い言葉となってしまいましたが、試験に合格すれば「飛び級」ができたためで、出来の良い生徒は、どんどん進学していくことができたからです。

また、各級終了ごとに「卒業証書」が発行されていましたので、普通に行けば年に2回卒業することとなり、8枚もの卒業証書を頂くこととなりました。

こちらの方は、今よりも重みは薄かったかもしれません。

下等小学では、「綴字」・「習子」・「単語」・「会話」・「読本」・「修身」・「書牘」(しょとく)・「文法」・「養生法」・「地学大意」・「体操」・「唱歌」などが行われ、上等小学では、それらに加え、「史学大意」・「幾何学大意」・「罫画大意」・「博物学大意」・「化学大意」・「生理学大意」が行われました。

明治時代の教科書そのものズバリや、漢字よりなんとなく理解できる科目も多いのですが、中には手紙や書状の書き方を学ぶ「書牘」や、教育勅語をよりどころとする道徳教育である「修身」など、馴染みのない科目もあります。

下等小学においては、国語や日本語、書やマナーに関する教育内容が多く、皮肉にも現代社会において、最も軽視されている部分が多いようにも感じられます。

時代の移り変わり、受験戦争、国粋主義からの反動などもありますが、下等小学の科目が、現代の受験のための勉強科目とは異なり、世の中に出てから最も役立つ内容に感じられるのも、なんとも皮肉なものです。

わたし自身、こうして文章を書いている時も、引き出しの少なさを痛感しているわけで、もっと漢字や日本語の言い回しを勉強しておけばよかった・・・と思う次第です。

それはさておき、その後この「岩科学校」は、1881年に「初等科」3年、「中等科」3年、「高等科」2年となると、1886年には「尋常小学校」4年となっていきました。



旧村役場の「開化亭」

開化亭この他、「岩科学校」の庭内には、かつての「岩科村役場」であった建物が移築され、休憩処として利用されている「開化亭」と呼ばれる建物があります。

大本は、「岩科商社」として1875年に造られた建物なのですが、この「開化亭」の建物の天井には、「入江長八」の弟子のひとりの「佐藤甚三」により描かれた鏝絵があり、一服しながらそれらを眺めることができます。

また店内に売られている地元の名産品も、ゆっくりみていくと面白いものがあり、お店の方からいろいろお話も伺えますので、是非ともこちらにも立ち寄ってみてください。



「岩科起て」

休憩処の「開化亭」と同様、この「岩科学校」の庭内に、高札のような形で、4文字の標語が掲げられています。

アプローチ上に大きな文字で書かれているので、誰もが気付くと思うのですが、「岩科起て」(いわしなたて)と書かれたこの標示板が何を意味するのか?

「岩科起て」の標示板「岩科学校」を初めて訪れた際には、この4文字の言葉が気にはなりつつも、この言葉が、地元の方々にとって特別な意味を持つ言葉だとはいざ知らず、先を急ぎ玄関へと素通りしてしまいました。
 
それから程なくして、なぜあの場所に標示板が建てられていたのか? どういう意味がこの言葉にあるのか? その答えを、「岩科学校」に展示されていた一枚の資料が、わたしに教えてくれました。
 
標示板「岩科起て」の概要と記されたその資料によると、明治時代に盛んに行われていた地相撲において、岩科地区代表の力士に対する行司の軍配に、不公平感を感じた岩科の応援リーダーが、「岩科起て」と大声を発したのが、その始まりとされています。

このリーダーの言葉を機に、岩科の控えの力士や岩科の力士を応援する人々が、全員猛然と立ち上がり腕を組み、いざとなれば一歩も退かないという、岩科人の意気込みを示したとのことです。

と、これだけではどこにでもあるお話で、「岩科起て」という言葉がクローズアップされるべくもなく、単なる逸話の中の一言で終わってしまうのですが、それから時が流れ、大正時代も末期の1925年に、たまたま懇談の場でこのお話を耳にした、32歳の若さでこの「岩科学校」の校長となった「外岡千代蔵」が、ここからヒントを得て、教育の指針にこの「岩科起て」の言葉を標語として掲げたのが、この言葉がクローズアップされだしたキッカケとのことです。

岩科学校 正面その後在籍した2年間に、短期間ながら多大な成果をあげた外岡氏は、地元の人々を常に感化し続けたため、岩科を去った後も「岩科起て」の言葉とともにその精神が受け継がれ、今に至っているとのことです。
 
わたしが目にした、この「岩科学校」の敷地内に建てられている標示板は、もともとは近くの赤松の傍らに建てられていた標示板を模したもので、元の標示板は、戦後に撤去されてしまったとのことでした。
 
現在の標示板は、1996年3月に再建されたもので、通学時の児童をはじめ地元の方々に刺激を与え続けてきた標示板が、ここに蘇ったカタチになりました。

再建された標示板の「岩科起て」の題字は、地元岩科の「稲葉久雄」によるもので、この「岩科起て」の言葉は、現代に生き続けており、この「岩科学校」にて毎年行われる「岩科重文まつり」のテーマになっていたり、教育現場でも盛んに使われています。

岩科の人々にとっては、世代を超え受け継がれるべく基本精神であり、今も「岩科起て」の言葉が、その精神とともに根付いています。

くしくもこの岩科の人々の前向きに、明日を見据えて立ち上がろうとする姿勢が、前述の大空目指して羽ばたこうとする「鶴」の姿にも重なり、わたしがこの「岩科学校」の建物を「鶴」に感じる要因のひとつにもなっています。



「岩科重文まつり」

この「岩科学校」周辺では、毎年4月中旬の日曜日に、「岩科重文まつり」が開催されます。

岩科学校 玄関この「岩科重文まつり」は、町村合併30周年を記念して、1985年を「地域活性化元年」にしようと、松崎町が提唱し制定された「7大イベント」の一つで、そのイベントとは、
 
1.中川三聖まつり(4月)
2.岩科重文まつり(4月)
3.岩地・大漁まつり(5月)
4.石部・大地曳き網まつり(7月)
5.夏まつり(8月15日・16日)
6.長八まつり(9月)
7.雲見・海賊料理まつり(10月)
 
となっています。

ある意味「松崎用語」の一つにもなっているこの「7大イベント」ですが、「重文」=「岩科学校」というほど、地元の方の間ですぐにピンとくる用語にはなっていないようです。

そんな「7大イベント」のひとつである「岩科重文まつり」では、この「岩科学校」も無料開放され、ブラスバンドや「牛原太鼓」の演奏、舞踊の披露などの「郷土芸能大会」、地場産品の直売や餅まきに茶会など、地元の方々と触れ合える様々な催しが行われます。

岩科学校また、松崎ならではの 左官技術の一端とも言える「光る泥だんご作り」の技術を競う「左技士選手権大会」が同時開催される場合もありますので、詳しくは松崎町の公式ホームページで確認してみてください。

この「岩科学校」は、同じく重要文化財にして、1873年に開校し1876年に建設された、長野県の松本市にある、日本で最古の小学校の1つである「開智学校」(かいちがっこう)と、2005年11月5日に姉妹館となりました。

こちらも明治時代らしい、和洋折衷のすばらしい建築物なのですが、「岩科学校」やこの「開智学校」など、これらの貴重な学校建築物が、現代社会において生き続けていることは、とても喜ばしいことであり、また後世に残していきたい建築物のひとつでもあります。

在りし日の岩科小学校建築物には、その時代にしか成しえない特徴が息づいており、その時代を知る上で、重要かつ興味深いものであり、外観デザインや建物の技術だけでなく、その時代の生活様式や暮らしぶりが感じられます。

そうした意味においても、この「岩科学校」は、長く保存されていくべく歴史・文化遺産であり、戦争により消えていった多くの学校建築物の分まで、明治という時代を表現し続けなければいけない使命が、この学校にはあるように思えます。

重要文化財「岩科学校」、あなたもこの学校で、明治時代の学校の姿を感じるとともに、当たり前になってしまった現代の「教育」の場、「教育」の在り方についても、一度考えてみてはいかかですか?
- 岩科学校 -
岩科学校の 『旅シュラン』 評価スコア
『旅シュラン』とは?
岩科学校 情報
■所在地 松崎町岩科北側442
■問合せ 0558-42-2675
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  第1位 富士宮やきそば
  第2位 地魚・お刺身
  第3位 静岡おでん
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  第1位 由比の桜えび
  第2位 沼津の干物
  第3位 焼津のマグロ
■□■ 星★聖 のココがポイント!「岩科学校」 ■□■
長八の最高傑作と名高い「鶴の間」の「千羽鶴」は必見だよ!
バルコニー上の扁額をはじめ、外観の装飾や造りにも注目!
「岩科学校」の建物を通じて、明治時代の学校の姿を感じよう!
温泉マイスター 星★聖
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