源頼家の墓とは?
静岡県伊豆市の 修善寺温泉 の高台にある 源氏公園 の一角にある、鎌倉幕府 第2代征夷大将軍 源頼家 のお墓。
建仁3年(1203年)9月7日に 鎌倉殿 としての地位を追われ、遠く離れた 修禅寺 に幽閉され、翌 元久元年(1204年)7月18日 に、北条氏の手の者により暗殺されたとされる。
源頼家の墓の見どころ
数奇な運命を辿った『修禅寺物語』の登場人物とは?
伊豆で最も古い温泉場として知られる 修善寺温泉 の、その中心的存在となっている 修禅寺 より桂川に架かる虎溪橋を渡り歩いて行き、石畳の道の先にある階段を上りきると、そこに 指月殿 がある。
伊豆で最古の木造建築とされ、あの世界的権威のグリーン・ミシュランこと "ギド・ヴェール" にて見事二つ星に輝いた歴史ある建築物なのだが、その指月殿とは切っても切れない縁のある人物が、隣接する 源氏公園 の一角に眠っている。
映画や歌舞伎で有名な 岡本綺堂(おかもときどう)の『修禅寺物語』に登場し、数奇な運命を辿った武将として知られる人物のお墓なのだが、今もひっそりとどこか寂しげに佇んでいるそのお墓が、『源頼家の墓』だ。
非業の死を遂げた頼家!
源頼家は、鎌倉幕府を開いた初代将軍 源頼朝 の後継者として家督を継ぎ、"鎌倉殿" として 鎌倉幕府 第2代征夷大将軍となった人物だ。
父の威光をそのままに鎌倉幕府の実権を握るはずだったのだが、家督を継いでからというもの、北条時政 を中心とした豪族たちの反発から配下の武将を掌握することがなかなかできず、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも描かれたような、13人の合議制を敷く体制となった。
そんな中、頼家は建仁3年5月19日(1203年6月29日)に、武田信光を派遣し 阿野全成 を謀反人として捕縛し配流。6月23日に八田知家により誅殺したことにより、しだいに実権を掌握しつつあった北条氏と袂を分かつこととなって行き、北条氏をよく思っていなかった 比企能員 とともに復権を模索するも、自らが病に伏せると一気に家督相続問題が勃発。その最中、比企氏は北条時政により滅ぼされてしまった。
その後、奇跡的に病状が回復した頼家が事を知り憤慨し、時政討伐の命を下すもすでに実権は無く、逆に北条氏の逆鱗に触れた頼家は、建仁3年9月7日(1203年10月13日)に鎌倉殿の地位を追われ遠く離れた 修禅寺 に幽閉されることとなった。
それから一年もしない元久元年7月18日(1204年8月14日)、北条の手の者により暗殺されてしまった。修禅寺の門前にあった 箱湯 の前身となる 中湯 に頼家が入浴していたとの伝説が残ることから、 中湯にて暗殺されたのでは…との見方もある。
それを裏付けるかのように、修禅寺に残されている絵地図には、中湯のところに「此頼家公御入湯之地也」との注釈がある。
2000年に外湯の 筥湯 が再建されたが、それとは別に虎溪橋の袂に "一石庵" という甘味処があり、そこに "知足の湯" という足湯があるのだが、この場所こそ箱湯(中湯)とされており、伝説ではそこが終焉の地となる。
享年23歳、あまりにも短すぎる生涯を閉じることとなった頼家の不憫な一生を憐れみ、その冥福を祈り建てられたのが、冒頭にご紹介した 指月殿 だ。
実母でありながら自らの子を追い込むこととなった、"尼将軍" と言われた 北条政子 が、修禅寺に寄進した経堂で、その傍らに今もひっそりと頼家は眠っている。
この『源頼家の墓』の前に立つと、歴史上の家督争いにおいては多々あることとはいえ、やはり悲しみを覚えずにはいられない。
鎌倉の地を離れ独り眠る "征夷大将軍"!
源頼朝の名は知っていても、頼家を知る人は少ない。鎌倉幕府を開いた源頼朝は知っていても、2代将軍の名前はなかなか出てこない…という人が多かったが、2022年放送のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のおかげで知名度が上がり、改めて頼家を認知したという人が増えたと聞く。
そんな『源頼家の墓』には、二基の五輪塔の間に小さな五輪塔がある。これが頼家の墓とされているのだが、その前にしっかりと "征夷大将軍左源頼家尊霊" という文字が刻まれた 墓碑 が建てられている。
この墓碑は、江戸時代の1704年に当時の修禅寺 第16世住職 筏山智船(ばっさんちせん)大和尚が、頼家の500周忌にあたり建てたものとされているが、この輝かしい威厳ある墓碑に刻まれた文字とは裏腹に、どこか寂しげな雰囲気が漂っている。
"鎌倉幕府 第2代征夷大将軍" として君臨していながら、父の 頼朝、弟の 実朝 が眠る鎌倉とは遠く離れた修善寺に眠ることとなった頼家。
その志半ばで非業の死を遂げた無念さや寂しさが、このお墓からは感じられる。
7月に開催される "頼家祭り"!
そんな寂しげなお墓も、命日にあたる7月18日の前日には、毎年地元の人々の手により「頼家忌」が営まれ、その週末には源頼家公行列などが行われる「頼家祭り」が開催され、多くの参列者のもと墓前供養も執り行われる。
この日ばかりは、かつての鎌倉幕府2代将軍としての輝きを見せるものの、やはり日常は訪れる者も少なく、ひっそりと佇んでいる印象は否めない。
頼家にとってせめてもの救いと感じられるのが、天が導いたかのように自然災害によりやむなく改葬され近くに移ってきた、かつての家臣である 十三士の墓 の存在ではなかろうか。
頼家が暗殺された6日後の元久元年7月24日(1204年8月20日)に、主君の無念を晴らすべく謀反を企てるも事前に露見してしまい、命を絶つこととなった忠義の士たちである。
志半ばで命を落とすこととなった、こちらも数奇な運命を辿った13人の家臣たちなのだが、そんな忠義の心をもった者たちが、天運により800余年の時を超えて傍に仕えることとなったことは、鎌倉を離れ失意のうちに非業の死を遂げた頼家の霊にとって、せめてもの救いのように思える。
ちなみに『源頼家の墓』の右横に建つ『谷川や 月のはこびも 九折(つづらおり)』の文字が刻まれた句碑は、地元と親交のあった江戸時代の戯作家 仮名垣魯文(かながきろぶん)のもので、1891年1月に旅館の三洲園指月館の三須東一郎により建てられたものだ。
観光スポットが目白押しの 修善寺 にあって、源氏公園に建つこの『源頼家の墓』を目当てに足を運ぶ方はなかなか少ないだろう。だが修善寺という湯まちを知り、修善寺を語る上では外せない源氏ゆかりの史跡でもあるので、是非訪れてほしい。
そしてお参りの際には、階段を上り墓前でしっかりと手を合わせてほしい。下から見上げるのとは違い、何か語りかけてくるものが感じられるはずで、是非とも頼家の話し相手になってあげてほしい…。
階段を上って、墓前でしっかり手を合わせよう!
源頼家の墓、そして我が子の冥福を祈り寄進された「指月殿」、800余年の時を超えて主君の傍に使えることとなった「十三士の墓」などを巡りながら、時代に翻弄され数奇な運命を辿った頼家の生涯に思いを馳せよう。
源氏公園の雰囲気を楽しもう!
葉擦れの音、風の音、そんな自然の音に耳を傾けながら、修善寺の温泉街とはどことなく違う空気感が漂う源氏公園を散策しよう!
同じように修善寺に幽閉された、源範頼の墓へも参ろう!
兄の源頼朝に謀反の疑いをかけられ修善寺の 信功院 に幽閉された「源範頼の墓」へも参ろう!
源頼家の墓の見どころ
源頼家の墓のおすすめ時期
1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月頼家祭り | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 |
源頼家の墓の基本情報
名称 | 源頼家の墓 |
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読み方 | みなもとのよりいえのはか |
英訳 | Tomb of Minamoto-no-Yoriie |
郵便番号 | 〒410-2416 |
所在地 | 伊豆市 修善寺 |
駐車場 | なし |
お問合せ | 0558-72-2501(伊豆市観光協会) |
するナビ | 修善寺の観光スポット |
アクセス | 伊豆箱根鉄道「修善寺駅」 ⇒東海バス「修善寺温泉」下車 徒歩9分 ⇒伊豆箱根バス「修善寺温泉」下車 徒歩9分 |