伊豆・駿河観光ガイド 伊豆・駿河観光ガイド 『指月殿』 100景リスト
指月殿 Vol . 38 指月殿(伊豆市 修善寺)
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指月殿 修善寺
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【指月殿 関連】
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ひっそり佇む「指月殿」
 
独鈷の湯」(とっこのゆ)と並び、修善寺を代表する観光名所として知られ、 「伊豆八十八か所巡り」の最後を飾る八十八番札所にもなっている「修禅寺」と、桂川を挟んで対峙する鹿山の麓に、ひとつのお堂が建っています。
 
指月殿への道伊豆で最も歴史ある温泉場として知られる修善寺に相応しい、風格のある佇まいをみせるそのお堂が、『指月殿』(しげつでん)です。
 
この「指月殿」は、伊豆半島で最も古い木造建築物として知られており、映画やおとぎ話にでてきそうなその外観は、単に古く傷んでいるという印象ではなく、現在に至るまでこのお堂が経てきた長い歴史の重みを感じるものとなっています。
 
わたしは、この修善寺温泉の「指月殿」を見るとき、同じ温泉場の外れにひっそりと佇むその姿から、長野県の「鹿教湯温泉」(かけゆおんせん)の「文殊堂」を思い起こします。
 
建てられた年代は大きく異なるのですが、どちらも川沿いに広がる温泉場の中心付近ながら、通りからは大きく外れた小高い場所にあり、人影も少なく、特別有名なお堂というわけでもなく、それでいて素朴で風格のある佇まいからか、見る者を惹きつける何かを持っている・・・、そんな印象を持つ建築物です。
 
歴史に興味のある方や、建築に興味がある方を除き、一般人にとっては、これといって見るべきものがないように思われるお堂なのですが、ただなんとなく湯上りにぷらっと散歩したくなる、そんな雰囲気を持ったところでもあります。
 
修善寺温泉には、他にも「竹林の小径」や「日枝神社」など、そういった趣のある場所が数多く点在するのですが、この「指月殿」もその中のひとつといった感じです。
 
 
 
伊豆最古の木造建築
 
「指月殿」は、「修禅寺」から、桂川に架かる「虎溪橋」を渡り、指月荘の横を進み、石畳の坂道と階段を上りきったところにあります。
 
指月殿途中には、かつての修善寺温泉7つの外湯のひとつとされ、2000年2月12日に復活した「筥湯」(はこゆ)があります。
 
前述のとおり、伊豆で最古の木造建築とされるこの「指月殿」は、鎌倉時代初期の建築物で、鎌倉幕府を開いた人物として知られる「源頼朝」の正妻にして、「尼将軍」として知られる「北条政子」により造られ、「修禅寺」に寄進されたと伝えられています。
 
そもそもこの「指月殿」が建てられた背景には、武家社会におけるお家騒動の悲しい物語があるのですが、そんな「指月殿」のお堂には、ちょっと珍しい仏像が安置されています。
 
 
 
蓮の花を持つ「釈迦如来坐像」
 
「指月殿」のお堂には、1982年の夏から約2年にわたり修復作業が行われ蘇った三体の仏像が安置されています。
 
釈迦如来坐像お堂の中心に置かれているのが、静岡県指定文化財となっている御本尊の「釈迦如来坐像」(しゃかにょらいざぞう)で、高さ 203cm、膝張り 169cm というスギなどの寄木造りで、鎌倉時代の作とされ、蓮の花を手にした禅宗式という、とても珍しい坐像となっています。
 
「釈迦如来坐像」の両側には、かつて横瀬地区にあった寺門を守っていたとされる二体の仁王像があります。
 
高さが180cmで、御本尊の「釈迦如来坐像」よりも古い藤原時代の作とされ、向って右に「阿形」、左に「吽形」が配されています。
 
横瀬と言えば、修善寺駅から狩野川を渡った下田街道沿いの地区で、今の「修禅寺」境内からは2kmくらい離れた場所になります。
 
仁王像 「吽形」 仁王像 「阿形」

当時この地に寺の門があったというのですから、それだけでもいかに「修禅寺」が大きなお寺であったかを、うかがい知ることが出来るのですが、実は総門はさらに遠くの瓜生野にあったとされており、さらには「西伊豆スカイライン」が走る「達磨山」(だるまやま)まで寺地が及んでいたというのですから、「寺地は歩いて一日かかるほどのものだった・・・」という古文書の文言どおりに、「修禅寺」の寺地は、半径4〜5kmに渡る、実に広大な敷地となっていたようです。
 
 
 
味のある「一山一寧」による扁額
 
指月殿の扁額そんなかつては「修禅寺」境内にあった「指月殿」のお堂には、元からの渡来僧で、書家として知られる「一山一寧」(いっさんいちねい)の書とされる扁額が掲げられていました。
 
一山一寧は、後に「建長寺」や「南禅寺」などの住持として、さらには五山文学の礎を築いたとされる高僧で、なぜこの「指月殿」の扁額を・・・と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、一山一寧は、1299年に、時の執権「北条貞時」により、一時期この地に幽閉されており、心ならずもそこから修善寺と縁を持つ人物となったようです。
 
現在この扁額は、保存のため「修禅寺」に置かれておりますが、代わりに複製の扁額が掲げられています。
 
複製とは言え、その書体は一見の価値がありますので、是非とも見上げてじっくりと眺めてみてください。
 
 
 
修禅寺物語の舞台
 
そんな「指月殿」を語るうえで欠かすことができないのが、映画や歌舞伎で有名な「岡本綺堂」(おかもときどう)の「修禅寺物語」でも知られる、鎌倉幕府二代将軍「源頼家」の存在です。
 
頼家の墓所源頼家は1199年に、父頼朝の後を受け家督を継ぎ、征夷大将軍として、鎌倉幕府の二代将軍として実権を握るはずでした。
 
ところが、家督を継いでからというもの、北条氏を中心にした豪族の攻勢から配下の武将を掌握することができず、1203年病に伏せると、家督相続問題に揺れる中、この修善寺の地に幽閉されてしまいました。
 
しだいに北条氏と袂を分かつこととなった頼家は、比企氏とともに復権を試みるもそれも叶わず、1204年7月18日、幽閉先の「修禅寺」の門前にあった「箱湯」にて、入浴中に暗殺され、23年という短すぎる生涯を閉じることとなりました。
 
そんな若くして不憫な一生を遂げた頼家の冥福を祈り、複雑な関係ながら母であった北条政子が建てたのが、この「指月殿」でした。
 
 
 
禅の奥儀「指月」
 
この「指月殿」というお堂の名の由来には、禅の教えが深くかかわっているのですが、 北条政子は、この「指月殿」とともに、仏教の経典である「大蔵経」(だいぞうきょう)や、釈迦三尊像を刺繍で表した「繍仏」(しゅうぶつ)などを「修禅寺」に寄進したとされています。
 
指月殿その多くがすでに失われており、現在残っているのは、静岡県指定文化財となっている、般若心経のひとつ「放光般若波羅蜜経」(ほうこうはんにゃはらみつきょう)の巻第二十三をはじめとしたわずか8巻となっているのですが、そんな経典の、禅の世界におけるあり方を説いたものに、「不立文字」(ふりゅうもんじ)という言葉があります。
 
この「指月殿」という名前は、この禅の世界で用いられる、禅宗の根本的立場を示す「不立文字」の「指月」の例えからきているとされています。
 
禅の世界では、経典などはその方向性は示すものの、言葉では本来の釈迦の教えは伝えられないとし、文字や言葉による伝達を避け、座禅にひたすら励むことにより、以心伝心、お釈迦さまと同じ域に達し自ら悟ることを目指しています。
 
その例えとして、「指月」が用いられ、月を指す「」を経典に、その延長線上にある「」を仏の教えとし、月に辿り着くことがすなわち悟りの境地としています。
 
「月」(仏の教え)を知る上で、経典はあくまでも「指」であり、その方向を示す便宜的なものであり、決して「月」そのものではなく、あくまでも座禅により以心伝心、自らが「月」に辿り着くことが重要であると説いています。
 
とても奥の深い言葉なのですが、そのような心持ちで、この「指月殿」上に上る月を眺めるのも、これ一興ではないでしょうか。
 
 
 
鎌倉の地を離れ眠る「頼家」
 
そんな「指月殿」の境内の一角に、頼家の墓があります。
 
源頼家の墓鎌倉幕府の将軍として君臨していながら、父の頼朝、弟の実朝の眠る鎌倉とは離れ、修善寺に眠ることとなったこの頼家を思うとき、歴史上の家督争いにおいては多々あることとはいえ、やはり悲しみを覚えずにはいられません。
 
頼家のお墓には、二基の五輪塔が建てられており、その前に、しっかりと「征夷大将軍左源頼家尊霊」という文字が刻まれた石碑が建てられています。
 
この石碑は、1704年に、当時の「修禅寺」第十六世住職「筏山智船」(ばっさんちせん)大和尚が、頼家の500周忌にあたり建てたもので、毎年命日にあたる7月18日の前日には、地元の人々の手により「頼家忌」が行われ、週末の源頼家公行列などが行われる「頼家祭り」にて、墓前供養が執り行われます。
 
ちなみにこの頼家の墓所のとなりに建てられている、「谷川や 月のはこびも 九折(つづらおり)」の文字が刻まれた句碑は、地元と親交のあった江戸時代の戯作者「仮名垣魯文」(かながきろぶん)の句碑で、1891年1月に、三洲圭山氏により建てられました。
 
 
 
移築された「十三士の墓」
 
この他、この「指月殿」の境内には、2004年10月に、伊豆に上陸した台風22号により被害を受け移築を余儀なくされた「十三士の墓」があります。
 
十三士の墓頼家様の家臣であったというこの十三士は、鎌倉時代の歴史書である「吾妻鏡」によると、頼家が暗殺された6日後の7月24日に、頼家公の無念を晴らすべく謀反を企てましたが事前に事が発覚し、後に侍所(さむらいどころ)の所司にもなった「金窪行親」(かなくぼゆきちか)らにより討ち取られたとされています。
 
この「十三士の墓」は、もともとこの「指月殿」よりさらに200mほど東の高台の、「御庵洞」と呼ばれる場所にありました。
 
「御庵洞」は、北条政子の父にして、頼家を死に追いやった人物として、また鎌倉幕府初代執権として有名な「北条時政」や、頼家が隠栖した庵室があったのでは・・・とされる場所なのですが、この場所にあった「十三士の墓」は、前述の台風の被害にあい、2005年7月17日に、この「指月殿」の境内へと移築されました。
 
移築にあたっては、修禅寺開創1200年の年ということもあり、「頼家祭り」が盛大に執り行われ、その中でこの「十三士の墓」の開眼供養も行われました。
 
儚くも頼家と同じ運命を辿ることとなった、この13人の霊は、今も修善寺の人々により厚く弔われています。
 
 
 
800年の歴史が持つ、お堂の魅力
 
800年という長い歳月の中で、この「指月殿」には、様々な著名人が訪れ、この場に立ち感じたことを、思い思いに詩や言葉として残してきました。
 
同じように、地元の方々をはじめ、この修善寺の地を訪れた人々が、この「指月殿」というお堂の歴史を知り、悲しい結末を迎えた歴史上の人物の姿を想いながら、この境内を歩いて行きました。
 
指月殿境内何も知らなければ、これといって見るべきものがないように思われるお堂なのですが、修善寺という街が単なる温泉地ではなく、日本を揺るがす歴史の舞台であったことと同様に、この「指月殿」もまた単なるお堂ではないことが、見る者を惹きつける、このお堂の持つ不思議な力なのではないでしょうか。
 
湯上りにぷらっと訪れ、温泉情緒を満喫する際には、境内に立てられている説明書をちょこっと読んでみてください。
 
その心持ちが、単に「いい感じの場所だねぇ〜」といったものとは違った、この「指月殿」の良さを引き出してくれるはずですよ。
 
 
  
 
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