角倉了以翁紀功碑とは?
江戸時代初期に、京都の豪商 角倉了以・素庵 親子が江戸幕府の命を受け、富士川開削の難工事を成功させ、甲斐と駿河を結ぶ約71kmの 富士川舟運 を完成させたその功績を称える記念碑。
富士川舟運は、主に上流の甲州三河岸からは年貢米を、下流の岩淵河岸からは塩を運んだとされ、その後 身延山への参詣者の利用も増えていった。
昭和時代の1937年に、富士川橋の袂にこの紀功碑を建立。その後 富士川町立第一中学校の校庭に移転するも、平成時代の1990年に富士川橋近くの当地に戻された。

角倉了以翁紀功碑 の 広告

角倉了以翁紀功碑 の 見どころ
富士川を向いて建つ紀功碑
江戸時代の1607年に、京都の豪商 角倉了以・角倉素庵 親子が江戸幕府の命を受け 富士川開削 に着手したという。1607年という年は、1605年に将軍職を秀忠に譲り隠居していた 徳川家康 が 駿府城 に入り大御所政治を始めた年なので、江戸幕府というより家康の命だったのだろう。
紀功碑には具体的な年の記述はないのだが、案内板には『慶長12年同19年両度にわたり、幕府から富士川の開削を命じられました。』と2回命が下ったと記している。川の中の岩の撤去や川底を削ったり、流れが弱い所は川幅を狭めたりするなどして危険の除去と整流化を行い1607年の夏には舟運が始まったのだが、それでも解決しなかった難所への対策と1612年の大洪水を受けて、1614年に再度改修工事を命じている。
この時は角倉素庵が主導したようで、春に起工し夏には工事は完了したのだが、それを見届けるかのように慶長19年7月12日(1614年8月17日)に角倉了以は息を引き取っている。
いずれにせよ最初に幕命を受けた角倉了以たちは、開削にあたり富士川の視察を行ったようなのだが、これがとにかく大変だったようだ。
記録による と 高瀬舟 は4人体制で、一般的な船頭・艫取・櫂取・中乗りとは異なり、富士川では親方船頭・半乗り2人・見習い船頭の4人だったというが、この視察時にその4人だったのか、親方船頭クラスが役割分担して4人付き従ったのかはわからない。
下りは半乗りが舵取りを行い鰍沢~岩淵までの約71kmを急流で肝を冷やしつつも半日で下れたが、上りは親方船頭が船首の穴に長さ9mの押上竿(瀬持棒)を通し舟を押し上げつつ舵取りも行い、残りの3人が体に長さ40~47mの綱をかけ岸を歩きながら流れに逆らい舟を引き上げて行ったようで、岩淵から鰍沢まで3~4日かかったという。その間船頭たちは、足半と言われるかかとのない短い草履を5足も潰したという。
NHKのブラタモリの『鯖街道・京都へ』の回の中で、上りは高瀬舟を水路の両岸から綱で引き上げる川曳きを行ったという説明があったが、ここは日本三大急流の富士川で水路の比ではない。
中でも巨岩が川底から水面に突き出て下流は滝のようになっていた鰍沢の「天神ヶ滝」、高さ218m 幅136mの岩がそびえ立ち激流が打ち付けていた身延の「屏風岩」、浸食により流れが二分され中之島(瀬戸島)を形成し、銚子(徳利ではなく盃に注ぐ提子)の口のごとく川幅が一気に狭ばり急激に流れが速まった芝川の「銚子ノ口」(現在の釜口峡)は、三大難所 として恐れられた。どれだけ困難を極めたかは、現在の富士川の姿を見ても想像に難くない。
上の写真は、ブラタモリ同様のどかに!?船頭が一人で舟を曳く、歌川広重の名所江戸百景『四ツ木通用水引ふね』の一部だ。富士川はこんな甘ちょろい光景とは程遠いのだが、川曳きの 綱のかけ方 に注目してほしい。
船頭たちは写真のように、いざという時に体を持っていかれないように綱を輪にして首から胸に掛け、両腕を通したり襷掛けにはしなかったようだ。首に掛からなかったのだろうか?と少し心配になったが、これが一番体重を乗せやすく早く外せたようだ。
ともあれそんな視察から5年の歳月をかけ、角倉了以は急流と言われる富士川での難工事を見事成功させ、通常上り4日 下り1日 早舟3時間~半日という甲斐と駿河を結ぶ約71kmの 富士川舟運 を完成させた。
この富士川舟運は、主に上流部の山梨県の鰍沢・黒沢・青柳の 甲州三河岸 からは年貢米を積んで下り、碑が建つこの辺りの 岩淵河岸 で荷を下ろすと、今度は塩を積み戻って行ったことから "下げ米 上げ塩" と言われた。
使用された高瀬舟はあえて薄い素材で作った "笹舟" と言われる富士川専用のもので、米は32俵積むことが出来たようで、岩淵河岸に着いた年貢米は馬や大八車に載せ替えられ陸路で蒲原の浜まで運ばれると、そこから "小廻し" と言われた小型船で清水湊へと運ばれ、大型船による "大廻し" で江戸の蔵前まで運ばれた。一方塩はというと、甲州三河岸で陸揚げされ甲州や信州へと運ばれていったようだ。
ここでなぜ富士川の河口や蒲原ではなく岩淵河岸止まりだったのか…という疑問を持つ方もおられるだろうが、岩淵は東海道の渡船場でもあり、富士川舟運によるこの川の上下の航行を "タテ流し" といい、対岸へと渡る渡船を "ヨコ渡し" と呼んでいたのだが、渡船が多いこの場所で舟が川でクロスしては事故のもととなるため避けたようだ。
こうして牛馬に比べ一度に大量の物資を輸送でき、陸路で3日かかっていたものを半日ほどとした富士川舟運は、甲斐と駿河を結ぶ大動脈となっていった。
その後、身延山への参詣者の足としての利用も増えて行き、江戸時代当初は100艘ほどだった高瀬舟も、帆舟やプロペラ舟などが登場し大型化も進んで行き、その間1874年には 富士川運輸会社 も設立され大いに発展を遂げ、明治期には800艘もの舟が行き来していたという。ヨコ渡しの渡船場も富士川水系に50箇所以上あったといい、この岩淵河岸には長さ10.3mの定渡船6艘と、長さ13.2mの高瀬舟18艘が行き来していた。
だが1889年に東海道本線が全線開通し、1903年には中央本線が新宿~甲府まで開通。さらに時代は昭和となり、富士川と並行して走る身延線の前身となる富士身延鉄道が1928年に富士~甲府まで全線開通されると、富士川舟運は316年に渡るその使命を終えた。
それから9年後の1937年、蒲原の青山荘で隠退生活を送っていた 田中光顕 の助言を受け、富士川舟運を成し遂げた角倉了以のその功績と多大なる地域貢献を称して、富士川橋の袂に建てられたのが、この「角倉了以翁紀功碑」だ。
一時期、旧富士川町立第一中学校の校庭に移されていたが、平成時代の1990年4月に再び富士川橋近くのこの地に戻された。そして現在も富士山を遠く仰ぎ富士川を臨むこの地に建っている。
尚、宮内大臣も務めた田中光顕は、政界を引退した後、明治末期の1910年にここから南に800mほどの所に別邸として 古谿荘 を建て住んでいた人物だ。その後、大正時代の1918年に古谿荘より蒲原の青山荘に移り住み、昭和時代の1939年に97歳で亡くなるまで終の棲家とした。
豪商!角倉了以
初めてこの紀功碑を訪れた時、久し振りに "角倉了以" という名を目にした。角倉了以の名は、受験勉強の成果!?もあり豪商として記憶していたが、何をしたかと問われれば答えられなかった。
角倉了以・角倉素庵親子による "角倉家" は、京都を中心に活躍し、主に朱印船貿易や河川開発で巨万の富を築いたとされる。徳川家康の御用商人として呉服や朱印船貿易で財をなした茶屋四郎次郎の "茶屋家"、秀吉や家康より金座を任され貨幣鋳造で巨富を築いた後藤庄三郎の "後藤家" とともに "京の三長者" と言われた豪商だ。
だが角倉家の本姓は吉田で、吉田家は元々は名医を輩出する家柄であり、そこで蓄えた財をもって土倉を営むようになったという。そしてその土倉の一つが "角倉" だったそうだ。
そんな角倉了以が静岡県と縁があったとは…と、この紀功碑を見るまで全くもって知らなかった。京都の豪商というイメージがあまりにも強過ぎて、どこか縁遠い感じで、河川の開削を行っていたことも、富士川が角倉了以によって開削されたことも知らなかった。
ザクっと調べただけでも大堰川や高瀬川などの京都以外にも、木曽川や天竜川などでその功績が称えられており、この岩淵以外にも角倉了以の功績を称える顕彰碑や銅像がいくつも建てられている。ネットで検索すればするほど、どれだけ角倉了以が河川開削や舟運で多くの地域に貢献してきたのかが伺い知れる。
困難を極めた富士川の視察から岩淵河岸は大いなる発展を遂げたが、時代の流れとともに何事も無かったかのように、今はひっそりと静まり返っている。かつての賑わいを伝えるのはこの紀功碑だけで、この光景を角倉了以はどう思っているのだろうか…

富士川地域の発展に貢献した角倉了以!
角倉了以は江戸幕府の命を受けて富士川開削を行い、高瀬舟による舟運を完成させた人物だよ!

316年間続いた富士川舟運!
昭和時代の1928年にJR身延線の前身となる富士身延鉄道が開通するまで、316年間利用されたよ!

角倉家は"京の三長者"と言われたよ!
京の三長者は、角倉了以・素庵親子の角倉家、茶屋四郎次郎の茶屋家、後藤庄三郎の後藤家だよ!
角倉了以翁紀功碑 の 魅力


角倉了以翁紀功碑 周辺の 温泉地‼





角倉了以翁紀功碑 の おすすめ時期
1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 |
角倉了以翁紀功碑 の 基本情報
名称 | 角倉了以翁紀功碑 |
---|---|
読み方 | すみのくらりょういおきなきこうひ |
英訳 | The Monument of Achievements Honoring SuminoKura Ryoi |
郵便番号 | 〒421-3305 |
所在地 | 富士市岩淵 |
駐車場 | なし |
お問合せ | 0545-81-5556(富士市観光案内所) |
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